アトリエ青 Atelier Blue

星つりじいさんの日々の暮らしをお届けしています

順番が違う

SDGs絵画教室2022年最終日は11名程の小学生の参加者、全員が女児でした。本講座は年齢設定と絵画コンクール出展が義務付けられる事になったので、今年から私の教え子ちゃん達は全員参加出来なくなったのは、ちと残念でした。

でも、近年はこういった講師のご依頼ワークショップでも毎回の様にリピーターに会える様になって来ました。

ここ8年程度で大津の子供800人は確実に私のワークショップを受けているので、再会する確率が上がってきたのかも知れません。

マスクしていても皆んな目を覚えているので、「前にも来てくれたよね?」と訊ねると「うん。」と言ってくれます。

私は「大きくなったねぇ〜」と完全にただのおじいさんの様なリアクションをしてしまいます。子供の1・2年は長いですからね。

今日も何人かに再会出来たのは嬉しい事でした。

内容はいつも通りの私のワークショップをしたところ、良い感じの実験作品が生まれました。

 


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音楽が聴こえて来そうで素敵ですね❣️

皆んな実験と遊び枠の時間はわくわく感満載なのですが、いざコンクールを意識した途端に、全部リセットされてしまう傾向にあります。

「感じるままに、思うがままに描いたら良いよ。」と助言しても、柔軟性がないですね。

ここをどう解決するかが私の大きな課題かもと思う一方、私ではどうにも出来ない事だとも思います。

ちなみに下のは、私のレクチャーしたものと、更に手を加えた落描きです。

 


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右の絵を「こういう活かし方もありだと思うよ。」と言って見せましたが、シーンとなりました😆 

コンクールに入選したいか、または何が正解なのか調べる為に、スマホで過去の入選作品をリサーチするに至って、僭越ながら、苦言を呈しました。

「人の作品を参考に描くのだけはやめておこうね。正直言って、僕のワークショップを受けたって入賞はしないです。ただ描いて楽しくなる経験は出来ます。今までに評価された傾向に則って描かなくても、審査員にこんな絵があるんだと思わせる方が素敵じゃないかな!?」

背中を押すと同時に、端的に言って盗作をして入賞する人生を選ぶなら泥棒になってしまうけど、それでも良いのか?と自問して欲しいのです。

ここまで言うと子供が傷つくから先述のような回りくどい言い回しになってしまうのですが、アートは相対的評価ではなく、主体性を全面に出して結果、たまたま入賞したくらいが一番です。

「入賞しなくても、私は面白い絵を描けた!」と微笑む。

ホントはそれに勝るものはないのです。入賞は大勢の関係者などから仰々しく賛辞を送られて、周りからの羨望の眼に囲まれて魅惑的なのはわかります。

きっとオリンピックに同じく「日本金メダル何個!」などと世間が騒ぐから、それで当たり前だと子供は刷り込まれてしまっているのかも知れません。

そういう人になりたいし、偉いと言われたいと思うのは危険です。それは自分が人より特別な高みにいると錯覚するからです。いわゆる優越感です。優越感ほど駄目な心理はありません。

 

「アート(芸術)は既成の枠をはみ出し、自由奔放なところに存在価値があります。 一方で自由の根底にある社会のマナーやルールの大切さを学べます。 子供の柔軟な発想力・無限の表現力を引出す事は感性豊かな人格形成に貢献します。」

この活動ポリシーは、こどもアトリエ青を2015年に立ち上げた時から全くブレていません。

大抵は人間の生育環境において、先にルールやマナーから刷り込もうと大人はしがちですが、順番が違う場合もあります。

そりゃあ生死に関わるような問題は別です。例えば、車道や線路に元気よく飛び込んで良い、異物を食べてからで良い、などとは思いません。

それは単純に危険な行為だから阻止してあげるのが思いやりです。

私は物心つく前から家の襖やすりガラスの戸など、家中に絵を描いていました。

これは微かな記憶で、3歳ごろに親に「あんたが描いたのよ。」と知らされたから記憶しており、実際に描いていた一歳頃の記憶はありません。

これは極端な例ですが、私の両親が笑って眺めていてくれたお陰で今の私がある様に思えるのです。

そういうところに描いてはいけないからとお絵描き帳を買い与えられれば、理解出来るし、ガラスや襖にはもう描きません。

借家に住んでいるとか、家中のあらゆるところが子供の落描きで埋め尽くされるのは、大人になった私でも抵抗はありますが、紙を貼っておくとか、なんとかして本能の赴くままに自由に出来る事を許容すれば、描く事は悪くないけれど、描いたら駄目な場所はどこかを子供はすんなり理解します。

順番なのです。

養生するのが手間で面倒くさいと思われる場合は、最低でも先に紙を置いておいて、「お絵かきはここにしようね。」くらいはしてあげたいものです。

それでも、描いてはいけないところに描いたとして、怒るのではなく、「お絵描きはどこにするんだったかなぁ?」と問い掛けてあげましょう。

子供は「あ、そうだ紙にするんだった。」と自然と自覚します。この時に責められたという感覚ではなく、教えてくれただけだと子供は腑に落ちます。

道路に飛び出したら車に轢かれるかも知れないと心配して叱ってくれた感覚と同じで、愛を感じます。

やりたい本能を先に抑え込むと、子供は親に嫌われたくないからから従うだけで、やらないに越したことはないとなります。

でも、知らないところで落描きをしたりして鬱憤(うっぷん)を晴らそうとします。

そういう子は親の前で良い子を演じる癖がつくのです。必ず、目の届かないところで憂さ晴らしをしています。

どうせなら親の目の前で憂さ晴らしを済ませてしまえる方が、お互いに清々しいし、親子関係の本質が築ける訳ですから一石二鳥です。

以上のような事から、冒頭の「アートは既成の枠をはみ出し、自由奔放なところに存在価値があり〜 社会のマナーやルールの大切さを学べます。 となる理屈です。

その意味でただ好きで描いている事を肯定してあげるのが親の役目であり、それを扇動するのが私の仕事だと改めて思いました。

いつもながらバカ真面目な自分には我ながら呆れますが、こういうバカがいた方が良いと思うのです。