毎日「人アタリ」で苦しみながら暮らしていて、いい加減そんな自分にうんざりしています。
通常よく使われる「人当たり」は、人と会った際などに、相手に与える感じや印象のことで「人当たりが柔らかい」などの使い方をします。
これはいい意味で使われる言葉なのに対して「人アタリ」は「食アタリ」をもじった私の造語です😆
つまり、食べ物でお腹がアタルように自分以外の人に心がやられる(アタル)ことを意味します。
食べ物のアレルギーや食アタリは記憶にないほど身体は大丈夫なのですが(牛乳は除く)、心の機敏や繊細さは尋常ではありません。
神経質とも言えるかと思いますが、自分としてはちょっと違うんです。「神経質」と言われただけで、2週間は調子を崩します(笑)
中でも自分の芸術上の美学に土足で踏み込まれるのが一番堪えます。
それもこれも最終的には突き抜けて絵にはプラスに働いており、人アタリと向き合い続けるのが私の性分なのかも知れません。
「感謝の灯火(ランプ)」
人アタリは日常のどこにでも潜んでいます。
会社や組織に友達を求めてはいけないのは常套句ですが、裏返えすと利害だけの人間関係しかないというのが寂しいです。
社会人になってからも、ずっとコンスタントに友達や親友が出来る生き方をして来れた私からすれば、利害だけの人間関係自体がむしろ不自然でとてもキツく、耐えられません。
利害が最初の関係であったとしても、せめて心からの感謝をもつことが出来れば、利害に終始するだけの人付き合いから少しは人間的な関係に発展するという希望を持っているのですが、
無理な人は無理と割り切るのも非常に大事です。
今日描いたご依頼品「感謝の灯火(ランプ)」は、そのようなニュアンスを絵にしました。
2年ほど前に描いたベオグラードの風景画も実は同じで、事物や世界に感動している自分を知り、ようやく自己存在に意味が与えられる気付きがあって絵になっています。
これも同じく内面を描いているのですが、これが建物や往来の景観にしか見えないとすれば表面だけを見ているという事です。
内面で埋め尽くした「感謝の灯火(ランプ)」のように描けば伝わりやすくなる一方で、表面しか見ない方にとっては全く感心されません。
そこが狙いでもあり、一枚の作品の好き嫌いの振れ幅が大きいものを描きたいと思います。