前回、個性について作為的な個性は要らないけれど、滲み出る個性はあっていい。出そうとしなくても出てしまうのが個性の本質だと話しました。
では、作為的で見せかけだけの駄目な方の個性を抜く(我を取り去る)にはどうしたら良いでしょう?
私の経験上では、自然や街並みなどの風景でも、雑踏の中の人や何気ない路傍の花でも何でも構いません。動物が好きな方はご自身のペット、動物園で写生・スケッチなどに時間を割くのがお勧めです。
但し、一切写真は使わないで、肉眼で見て描くことが必須 です。
その理由
⚫️ 視界はフレームではなく、執着心・関心を持つものに脳が照準を合わせるが、写真はそうはならない。 一眼レフカメラでピントを関心ある主題に合わせれば可能に思えるが、他がポンボケするだけであり印象は写真として完成されてしまい、決して絵にはならない。
⚫️風景写生の場合は、構図をどう切り取るかから現場で考えるところから絵を描く作業に入っている。一方で、切り取った周囲の事物も作画に大きく影響する。写真ではそれが全く感じる事が出来ない。
⚫️ 写真は露出の調整により、肉眼の光・明るさの印象を変えてしまう。目ほど優れたレンズはない。例えば電車内と窓外の景色の双方を適正な明るさで認識できるが、写真はライトを使わない限り、不可能。
⚫️ レンズの口径により肉眼とは違う遠近感になってしまう。
写真と肉眼の違いはまだまだ数え上げるとキリがありません。写真の特性を活かしたものが写真芸術となり、一つの表現技法である事は大いに認めますが、肉眼の変わりに安易に写真を撮る時には先述の肉眼との違いを充分理解していなければなりません。
写真取材をして、そこから絵に起こすという方法を取る画家やイラストレーターもいますが、写真に精通しているから出来ることです。よって、とにかく肉眼で見て描くのが重要となります。
これ以上は「作為的な個性を抜く」から外れるので、写真と肉眼との違いについての話は端折ります。
※これらの写真も肉眼と違いすぎて絵には出来ない事を理解して、写真として面白いアングルになるように撮っています。
肉眼による作画で他の優れた点を挙げると、身体をその場・空間に身を置くことで、天候(気温・風)、時間経過、気配、匂い、など膨大な情報が受容できます。つまり、五感で受容出来ると思って下さい。
このように写生は視覚だけでなく、全ての感覚を総動員しないと描けないので、これが好都合となります。ひたすら丹念に観察し、感じ、記録する中で自我へのこだわりが消失して行くでしょう。
※この絵は20年ほど前に現場で描きました。透明水彩画としての出来は良くないですが、体感したものは定着し、作為がないのが良いです。不思議なことにこの日の前後の出来事まで記憶に蘇ってくるのが面白いですね。
写生やスケッチでは眼前の事物が圧倒的に存在し、支配されます。これを反復する事で、作為的な個性を抜くことに繋がります。