絵でも歌でも「個性を出さないといけない。」「個性的でないと人の目に止まらない。」という声をよく聞きます。そこで誰もが作為的に表面的な個性を出そうとしてしまいがちです。
そこには罠があるのですが、どうしても人より目立ちたい、認知度、知名度を上げるための方法として外せないと思い込むのです。
私が美大に通っていた時も臨時講師(准教授以前の作家活動をしながら非常勤で勤務している3、40代の先生)が処世術として、こんこんと話してくれたことをよく覚えています。
目を掛けてもらっている証拠でもあり、二十歳の頃の私は有り難い思いで必死にその話を聞きました。なので40年近く前の話をよく覚えています。
具体的には
⚫️「画壇に属している場合、自作が入賞などした場合に、その時に対外的に高評価を受けた特徴・画風を自分なりに継承して展開していく方が良い。それがたまたま出来ただけで自分はこだわっていなくても、せっかくの評価ポイントを大事にして行くべき。もし、コロッと変えたら評価がリセットされるリスクが伴うから。」
⚫️「人がやっていない事を探してみると良い。僕の場合はコミカル(ユーモラス)な要素を絵画に取り入れている人が見当たらない事に気が付いたから、やってやろうと思った。」
⚫️「制作展(画壇の発表会)が迫って来たら描きたくなくても、描かないといけない。休んでしまったら存在を忘れられたり、大御所ならまだしも僕ら若手は会員の権利を剥奪されるかもとか、不安が沢山あって精神不安定になる。だから無理にでもモチベーションを上げないといけない。そんな時は辛い。」などなど。
そして、手っ取り早く画家として名を出したいという邪念しかなかった私は、それらの話さえ悠長に思え、あらゆるオーソドックスな絵画を放棄して、ひたすら何をすれば目立つかを考えました。そこは若気の至りであり、私自身の問題なのですが😅
先生が言う誰もやっていない新しいアプローチや作風なんて、世界を探せば先にやっている人がいるに違いなく、ただ自分に情報として入っていないだけである場合が大半です。
結局個性的な画風を確立しようにも、若すぎて人間性や人生経験も何もないのだから、無理な話なのです。でも、若さというのは青さですから、右往左往した結果、絵が描けなくなったり、描く意味がわからなくなる悪循環に陥りました。
四年目の卒業作品展では、ゴミ捨て場から拾った物などで即席でオブジェ風にして展示したりと、それはもう散々な悪行に走るあり様。単に気を衒っただけの関心引き行為に走りました。
これらはある意味、身から出た錆であり、絵描きとしての底つき体験となりました。
10年ほど絵を描かないで暮らして、やっと好きで絵を描こうと思うようになりました。先述の先生方の助言も全て反面教師にする事にしました。それでもやはり個性は大事だという感覚は拭い切れない自分がいました。画壇に属しなくても、公募展に出す時にやはり意識してしまうのです。
人間というものは恐ろしいもので、あれだけの底つき体験を経ても野心や優越、相対的評価の中で人を差し置いて自分だけがスポットライトに照らされる快感に悦びや生き甲斐を見出そうとしてしまうのです。
これは映画「スターウォーズ」で例えると、正にフォースのダークサイド(暗黒面)ですが、この例えが逆に不親切に感じられる方には、「人を見下す地位に鎮座すると気分が良い」とでもいえば伝わるでしょうか。
そのために個性を磨くというのは間違いだと気付くのに、そこからまた10年掛かりました。本当に頭が悪いですね😂
で、「個性は必要なのか否か?」という本題に戻しますと、「作為的な個性は要らないけれど、滲み出る個性はあっていい。」というのが私が辿り着いた答えです。出そうとしなくても出てしまうのが個性の本質だという事です。
個性は技術・技法・画風ではありません。人間性、経験や人生観などに裏打ちされた感性が伴った表現に個性は潜みます。
また個性はオリジナルである必要はありません。様々な優れた芸術・芸術家・その他諸々に触れて意識するしないに関わらずに良きものを吸収して育まれます。そうして得た表現はオリジナルはないですが、リスペクトして敬って身体に入ったのであれば、真似ではありません。
左の飛行船のイラスト「夜間飛行」は影絵で有名な藤城清治氏からインスピレーションをもらいました。でも、私の世界観や個性もしっかりあります。黒をキャラクターに用いた焚き火のイラスト「焼きイモが出来るまで」も同じくです。私の精神性が画風に完全に同化しているから個性だと言えるのです。
下の場合、左の上半分が星つりじいさんの原型で、その下が以前コラボしていたHさんの描いた2軒の家がある風景。この雲の凄さに感銘を受けました。
その後数年して、「星つりじいさん」絵本原画を描いた時に雲が私の個性になって右の絵が出来ました。Hさんに感謝しながら描きました。
黄緑の山も素晴らしい!の一言ですが、これはもうHさんにしか描けないもので手を出せません。これを超えることは不可能です。なので、ただただ感服すれば良いのです。
そんなこんなで「星つりじいさん」の原画には私の個性的なものが数点あります。
と、個性の話をしつつ「見下してはいけない」と言いながら、結構見下しているように感じられるかと思いますが、そうではないのです。
先生方も過去の自分も含めて憐れんでいるのです。憐れみは人を馬鹿にしているのではないし、上から見下す感情ではありません。
大人の教室でこういった話に触れると空気が重くなりますし、必要としない方も多いです。
興味がある方にだけブログを介して私の失敗談を糧にしてもらいたく「個性」について触れました。
最後に助言ですが、私がHさんの山を「とても手が出せない。」と思うように、私の個性に手を出そうとするのは良くないし、間違っています。
見たままをパクるのではなく、自然に吸収したり、咀嚼して身についたのなら問題はありません。
好きに獲って、盗んでいいのは技法や技術・理論です。これが少し何かの気付きに繋がることを願います。
怯まずに描いて大いに葛藤して頂ければ幸いです。
ネットから転載させて頂いた4枚の油彩画は、私が敬愛する安井曽太郎とポール・セザンヌの作品です。
これらにずっと憧れて眺めて来ましたが、油彩では全く活かすところに到達出来ませんでした。
でも、先日透明水彩で1時間で描いた「ゼムンの公園」には、学びが出ました。
これも狙ってそうした訳ではありません。不意に描けた感じですが、私の個性として展開している気がします。
憧れ、敬う姿勢が感性の中に30年〜50年潜伏して表出したのでしょう。