アトリエ青 Atelier Blue

画家・アートディレクター 石田泰也の日々の活動風景をお届けしています

46年前の教え

今から遡ること46年前、京都の紫明(しめい)小学校6年生になった時に、それまでなかった美術部が突然出来たので、我先にと飛び込みました。顧問は林伊織先生です。

中学校時代の担任は苗字だけ覚えていて、高校になると苗字さえ思い出せないのですが、何故か小学校時代の担任の先生の名前だけはフルネームで記憶しているのが不思議です。

林伊織先生は、月に3、4回しか部活でお会いしないのに、その佇まいの気品や、それを体現するかの様な名前の響きが印象強く残っている稀有な恩師です。

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卒業アルバムも白黒だった時代。丸刈り頭のヒョロッとしたのが私でして、当時は親戚からは〝もやし〟と言われ、学校では〝スロービデオ〟と言われ、不愉快この上なかったのですが、林伊織先生だけは唯一全く嫌な思い出がありません。

体型が痩せて細過ぎるから〝もやし〟 ADHDで人より何事もワンテンポ遅いから〝スロービデオ〟こう呼ぶのは大人達や担任だけでした。一体どうしろと言うのでしょうか? 致命的なのは、そこに愛情はなく、思ったことを口に出しているという事です。

友人からはそういった言葉を浴びせられなかったのは、子供が本来もっている思いやりなのでしょう。この経験は反面教師として活用させて頂いています。


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話を本筋に戻します。

美術部の白黒写真の男子児童は同じ6年生で、卒業後も友人でした。この時、M君が「奈良の大仏の建造中」の絵、H君は「銀河鉄道の夜」をモチーフにした絵。私は「鶴のおんがえし」の絵を描いています。3人とも碌でもない絵でした。特に私の絵は、鶴に姿を変えて夜空に飛んでいく娘をお爺さんが手を振って見送るという場面で、面白くもなんともないです。何故ならただの鶴だからです😂

そして、使った色は紺色・青・焦茶・黒・白に偏っていました。私が「出来上がりました。」と先生に絵をお見せしたら「本当に上手ね〜、でも色が寂しいわね。」と仰って、パレットで赤を薄く溶かれて夜空の青い箇所や、雪原の中に少し筆を入れられました。そして「うん、これで良いかな。」と仰られたのです。

私は、空の青が紫がかるのはまだしも、どうして雪に薄い赤が入るのか、この時には受け入れられず混乱しました。また、これまで私の原画に直接筆を入れられた経験はなく、恐らくこれが最初で最後の様な気がします。だから鮮明に記憶に残っているのです。


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全体の色彩バランスが寒色ばかりであれば、それを引き立てるためにあえて隠し色の赤を置く。今なら直ぐに理解できるし、黄色や黄緑も平気で雪に置けます。

しかし12歳の私にはその事が分からず、ずっと反芻していました。「ああ、そういう事か!」と、腑に落ちたのは高校三年生の頃だったかと思います。

先生には質問も出来ず、美術部は一年経って卒業しました。

「教えはその人がいなくなった時に始まる。」というシ・オ・ミ 師匠の名言があるのですが、その時に「何を言ってるんだろう?」や「具体的に説明してくれない。」場合に、自分で気付くまで反芻して知る行為こそが、最大の教えだという意味です。

教えるようでいて、説明したり、解説している場合がよくあります。これは教えの本質から少しズレているのかも知れません。私も教室の講師をしている上で、配慮したい課題です。


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話は更に白黒写真の左端の女子児童に移ります。彼女は5年生で、稚拙な絵を描いていたので陰で馬鹿にしていました。なのでろくに話した記憶がありませんし、名前も覚えていません。私は当時から子供離れした大人の画家の様な絵を描こうとしていたからですが、彼女の存在により(お蔭により)これが叩き潰される経験をしました。

彼女が描いていたのは空に大きなクジラが飛んでいて、そこに町があったり、人や動物が乗っている絵でした。空想で描いていたように記憶しています。正に自由闊達、天真爛漫、思うがままに心のイメージを絵にしていました。そこに上手いとか、精密とかの概念が入り込む余地はなく、のびのびと大胆でした。

陰で「下手くそ」と揶揄していたその絵はコンクールで入賞しました。すると、悔しいものだから林先生に「何故あんな下手な絵が賞を取れるんですか?」と問いただした事も覚えています。その時の先生の答えはよく覚えていないのですが、にこやかに「でも楽しい絵よね」くらいの事だけ言われた気がします。

この事も、その後ずっと納得できないでいたのですが、40歳を超えたあたりで、ようやく「彼女のは素敵な絵だった。自分の絵など比べものにならない。」と自覚したのです。それは「アカデミックな美術教育や正確さなどより、もっと大事なのが心であり、等身大の表現を出し切っていたから素晴らしい。」とわかったのです。なんとまあ、時間を要した事でしょう。


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彼女の絵は子供の絵のかがみのような作品であり、50歳になる頃に子供の教室をする動機にも繋がりました。たった一年の美術部の限られた時間で、このふたつの教えを得た事に、今では心から感謝しています。名前を覚えていない彼女はその後どんな絵を描き続けたのか、気になって仕方がありません。

私は今、こどもアトリエ青のワークショップでそれに巡り合える事を何処かで期待している気がします。それどころか彼女がいなければ子供と接しようとしないままの人生を歩んでいたかも知れないと思うと、ゾッとします。

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46年前に物凄い教えを得た。それを誰かに返して行くのが私の仕事だと痛感します。