アトリエ青 Atelier Blue

星つりじいさんの日々の暮らしをお届けしています

短編小説の試み

これまで、エッセイを書いたり、若い頃は映画の脚本も書いていましたが、今日は絵本の構想を練っていると、これは小説が一番向いていると思うイメージが下りて来ました。人生初の短編小説です。

私小説的ですが、あくまでもフィクションであり、実体験とは全く無縁です。自分では、なかなか面白いと思いますので、興味をお持ちいただければ幸いです。

 

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 いつも仕事から帰ってきたら酔っ払って寝るだけの親父は子供の俺から見たら何が楽しくて生きているのかわからない。ああいう大人にだけはなりたくないと思う、見本の様な男だった。

 でも、俺に対して暴力を振るったり、怒鳴ったりする事はなかったし、面倒見は良い方だったのかも知れない。ガキの頃は同じクラスでも金持ちの山田のたっ君なんかは、年に一回は海外旅行に連れて行ってもらっていて、変な土産を学校にまで持って来て自慢していた。

 うちはせいぜい、家族で焼肉屋へ行くくらいが関の山だった。しかも、居酒屋の様な焼肉屋だ。母ちゃんは「飛行機なんて乗ったら帰って来れなくなっちゃうよ。」と言うくらいだから、ある意味似た者同士。釣り合いの取れた夫婦だった事は確かだ。

 だから、何がよくて結婚したのかはわからないが、なんとなくそうなったんだろうなと子供心に思った。

 小さな家風呂が嫌いな親父はたまに銭湯に行くのが日課だった。今から思えば、あれもじゅうぶんレジャーだ。湯船に入ると必ず頭まで全部浸かっては、ぽこんと「多摩川の玉ちゃん」と言いながら顔を出す。

 俺には一体何の事だかさっぱりわからないが、俺が物心ついた頃に多摩川って言う川に迷い込んだアザラシがいて、それが評判になった事があると母ちゃんに聞いた。ニュースで毎日報道されていたと言うのが今では信じられないが、なんとなく見た覚えはある。

「おーい、けん。けんじ、風呂行くぞ。」

「ほーい。」

 面倒くさいけれど、風呂上がりに飲む銭湯の冷やし飴が目当てで俺は必ずついて行く事にしている。テレビゲームをキリの良いところで止めて俺は階段を駆け下りた。

「お前パンツ持ったか?」

「うん。」

 その日も親父は日課の〝多摩川の玉ちゃん〟をして、俺は気分を変えてラムネを飲んだ。やっぱり冷やし飴の方が絶対に美味い。けど、たまに違う物を飲んだ方が、改めてその美味さを再認識できる。f:id:IshidayasunariART:20220219002028j:image

 風呂上がり、カラコロと親父は下駄を鳴らしながら帰る。近所の高校生か女子大生らしき風呂桶を持った2人が前から歩いて来た。片方の女はもう尻が見えるんじゃないかと言うくらい短いショートパンツで生足をみせていた。すれ違いざま、ふと横目で親父を見ると、案の定、煙草をふかしながら振り返っておねーちゃんの脚をじっと見ていた。「なんてアホ面なんだ。」俺は子供ながら心の中でそうつぶやいた。

 親父は決して人の悪い人間ではないし、かと言って目立つタイプでもない。でも男として格好いいと感じた事が今までの記憶では全くない。きっと俺くらいのガキの頃から、この人はずっと変わらないんだろうな。そう思った。

 たまに飲み屋で酔っ払って喧嘩騒ぎを起こすが、それは大抵酒が入った勢いで若い兄ちゃんに自分から絡んで行って殴られるパターンと決まっていた。それも被害妄想で自分の陰口を言ったとか、一方的に因縁を付けるのだから、言われた方もたまったもんじゃない。

 「このオッサンがいきなり絡んで来やがったんだよ。俺は何も言ってねーし。」若者が一生懸命弁明していた。警官が駆けつけた頃には、殴られた親父はカウンターで気持ち良さそうに寝てるので、大ごとになる事はなく、毎度の事だと知っている店主は「だから、警察呼ぶなって言ったじゃない。」と若者をなだめていた。親父は殴られたことも忘れて10時には鼻歌を唄いながら家に帰って来た。

 たまに夜中の11時を回っても帰ってこない事もあり、そんな時は決まって母ちゃんに「けんちゃん、見て来ておくれ。」と言われ、仕方なく外に出ると決まって、河川敷の石段で寝ている事が多かった。

「父ちゃん、どこで寝てるんだよう。」

「・・・・・・・・。」

「ねぇ、父ちゃん。」

 俺はしばらく横に座って川向こうを眺めると、街の灯りがチカチカして、昼間とは全く違う世界に感じた。河川敷には得体の知れない生き物か不審者がウヨウヨいそうに思ってしまうと、もう駄目だ。20分程して、また声を掛けて、耳を引っ張ったりしている内に親父は大抵眼を開けた。不思議と親父が目を覚ますと、それまでの怖さは吹っ飛んだ。

「おう、けんじ、まだ起きてんのか?」

「何言ってるんだよ、もうすぐ11時半だよ。父ちゃんを迎えに来たんじゃないか。」

「あ、また寝ちまったか・・・。」

そう言って、そろりそろりと身体を起こすと、手を繋いでぶらぶら家路に着いた。

「しょーがないな、父ちゃん。」

「・・・・・・・・。」

親父は一言も喋らず、ポンポンと俺の頭を叩いた。

 ある日、いつもの銭湯でタバコを吸いながら冷やし飴を買ってやろうと、ガマ口を開けたところを男が掴んで逃げた。

 「あっ、あの野郎。」と言って、親父は俺を置いて走って外に出た。30分。いや、実際はほんの5分くらいだったのかも知れない。俺はずっと親父が戻るのを待った。結局、逃げ足が速くて追い付かず、諦めて帰って来たらしい。だからその日は冷やし飴を飲めなかった。

 俺は悔しくてなかなか寝付けないでいた。それから俺も必死で引ったくり犯を追いかけたが、何だか知らない建物に迷い込んで、階段を登ろうとしたら、映画の様に急にスローモーションになって足で踏もうとする段がゆっくりとバラバラになってしまって登れない。俺は空中を漂いながら溺れたように腕をかいて必死で足踏みをした。怖くなって目が覚めたら夢だった。

f:id:IshidayasunariART:20220219223042j:image 何日かして警官が男を捕まえたと電話してきた。犯人はこの辺りで置引きや引ったくりの常習犯としてマークされていたホームレスだったらしい。銭湯では何故か黒っぽいジャケットを来ていたので、サラリーマンかと思ったが、それは作戦だったのだろう。

 一応被害届は出してあったので、男の所持品を確認して欲しいと言うので、近所の交番に親父と一緒に行ってみた。

 会ってみると夢の男だった。銭湯ではクロっぽいジャケットを着た会社員という印象しか持てなかったのに、どうして夢に出て来た時はしっかりと顔が見えるんだろう。俺はまたスローモーションが始まるのではないかと錯覚した。

 もちろんそんな事はなく、親父は男に馬鹿野郎と言いながら掴みかかった。ホームレスはすっかり意気消沈した顔で目を伏せていて、例えようもなく弱々しい感じになっていた。

 「まあまあ、落ち着いて、落ち着いて、まずこれがあんたのか確認してみて。」警官に言われるがまま、親父は盗られたガマ口を手に取って中を開けた。そこには百円玉が一枚入っているだけだった。

「現金はもっと入ってましたか?」警官に訊かれ、親父は「いや、これで全部です。」とぼそっと答えた。

「なんなんだ、一体。親父はたった100円如きでムキになってこの男を追いかけて、被害届まで出したのか?」俺は心底情けなくなった。

 簡単な手続きを済ませて交番を後にした俺たち2人は、とぼとぼ歩きながら「今日も行くか。」「うん。」それだけ言うと後は無言で家に帰った。

 「大体1.000円も入ってなかったっていう方が情けないよ。」と母ちゃんが呆れ顔でそう言って笑った。親父も頭を掻いてヘラヘラしている。どうしてこうも覇気がないのか、毎度の事ながら俺も愛想が尽きる。俺は自分のパンツとTシャツだけ抽斗から取り出して銭湯に行った。

 いつも通り一緒に湯船に浸かる。でも親父は流石にバツが悪いのかずっと口をつぐんで一点を見つめていた。「いい恥をかいたとでも思っているのだろう。」俺はそう思うと掛ける言葉がなかった。いつもなら直ぐに潜って〝多摩川の玉ちゃん〟をやるルーティーンは一体どうなったのか?

 いつまでも呑気に浸かっていると、俺まで居心地が悪くなる。 と、突然、「ガボン」という音と共に親父は湯に潜った。湯船の湯が大波を立てて溢れて、近くで頭を洗っているハゲ親父の石鹸箱がタイルの上を1メートルほどスルッと移動した。

 いつもより何秒か長く潜っていた親父は「ぷあー」と大声で言いながら、顔を出した。そして唐突に大笑いした。銭湯の高い天井に笑い声が響いた。隣の女風呂まで丸聞こえだ。

 一体何が起こったのか、気がおかしくなったのか、見当がつかなくなった俺の左肩をぐいと親父の大きな左腕が掴んだ。俺たちは湯船の中でピッタリ身体を密着させていた。

 「あの野郎も、100円しか入ってないと使いづらかったんだろうな。こういう時は金持ちに生まれなくて良かったって思うだろう、な、けん。お前もそう思うだろう。ワハハハハハ。」

 思わず俺もチャポンと湯船に潜って顔を出して「玉ちゃん」と言って一緒に大笑いした。

 あれから20年経って、親父は呆気なく病気で死んだ。まだ55歳になったばかりだった。今、俺はこうして自分の2歳の娘と銭湯の湯船に浸かっている。今の家の風呂は実家のよりはデカいが、無性にこの湯船に浸かりたくなる時がある。娘もすっかり銭湯を楽しみにする様になった。俺はいつもポケットに百円玉を数枚入れてある。こいつと一緒に冷やし飴を飲む時の、その時が来た時の為だけに使う金だ。

 親父がたった100円でむきになって、引ったくりを追いかけた気持ちが今の俺には痛いほどわかる。そんな親父が今の俺には憧れの存在なんだ。

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                挿し絵 石田泰也