アトリエ青 Atelier Blue

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一人称の彼方

前回の記事で「一人称」について触れましたが、いつもの事ながら話の内容が見えない読者の方が多かったかと思います。これは一重に私の独りよがりな文章が原因かと思います😅 今日お話ししたいジョン・カーペンターの大傑作「透明人間」を語る前に今一度、一人称の考察を述べたいと思います。

小説や映画・ドラマの中で登場人物の内面を台詞(セリフ)により語られる表現が多々見受けられます。その際に主人公自らが語れば一人称と言い、作家(第三者)が語れば三人称と言います。

映画では、語る声の存在をモノローグと呼びます。

 

小説は心理描写となる内面を文章で書かない限り、伝えようがありません。何故なら映像情報がないからです。例えば「私は哀しみを通り越して笑った。」が一人称で、「〇子は哀しみを通り越して笑った。」と書くと三人称です。これらをどう使い分けるのかは、話が長くなるので省略しますが、大体はどちらかで書かれているので、気になる方は読書をすれば一目瞭然かと思います。(但し、稀に心理描写をほぼしない小説もあります)

一方で、映画は映像に音響、音楽、台詞と、情報量が溢れています。よってモノローグに頼らずとも、幾らでも内面や心理描写が伝わります。下手をするとNHKの連続小説の様に映像音響付きの小説になりかねない危険を孕む訳です。それは説明や補足という贅肉となり、映画ではなくなって行きます。

優れた映画はその点を重々理解した上で、モノローグを用いていますが、テレビドラマの殆どは鈍化の極みを突っ走っていますので、下手をすると馬鹿になります。分かり易すぎるのは親切な様で、鑑賞者の感性の鈍化をも招くので、危険で罪な事なのです。

前回紹介したジャームッシュ監督の「リミッツ・オブ・コントロール」における一人称に私が畏れたのは、モノローグが一切ない上、主人公が無口なのに関わらず、観ている私が同期した感覚になったからです。これは、映画表現が研ぎ澄まされて濁りがないからなし得たのでしょう。また、もしかしたらジャームッシュが主人公と同期した演出を試みたのかも知れません。それらはまるで眠っている間の夢を共有した感覚に似ています。これ以上は、もう映画をご覧にならないと何がなんだか分からないとは思います。興味のある方はなんとでもして鑑賞されて下さい。

 

小説、映画、絵画、音楽など、様々な表現があり、その中にもまたジャンルに細分化され、時には細分化を拒むジャンルまでが存在します。いづれのジャンルにも支持者がいるという事で一向に構わないのですが、表現者側にいる者は、ただなんとなくやり過ごすのは許されないと考えています。

で、長い前置きをこれくらいにして、やっとジョン・カーペンターの「透明人間」の話です。

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本作は主人公の回想形式で終盤までモノローグが入ります。この点で「リミッツ・オブ・コントロール」とは逆の古典的なスタイルの一人称映画となるのですが、本当に素晴らしい成功例です。いつもどこか破綻するか、本道から外れて行ってしまうのが微笑ましいカーペンターですが、本作に限っては驚くほど映画全体のクオリティが高いのです。原作・脚本の功績が相当高いのだとは思いますが、サスペンスの王様アルフレッド・ヒッチコック作品を彷彿させる凄さです。

ヒッチコック作品には「疑惑の影」「サイコ」の様なミステリーの謎を解明していく探偵もの形式と、「逃走迷路」「北北西に進路を取れ」「フレンジー」の様な主人公が犯人の濡れ衣を着せられ、事件に巻き込まれ、追われながらも自らが事態の解決を図るものに大きく分かれますが、「透明人間」は正に後者なのです。

で、画家としては、古典的、革新的いづれ一人称映画にせよリスペクトし、そこから吸収出来るものを貪欲に咀しゃくせねばと思うのです。