アトリエ青 Atelier Blue

星つりじいさんの日々の暮らしをお届けしています

恩師との交信

4年前の平成27年に高校の同窓会誌の表紙絵として私の「待ち侘びて」という作品を掲載頂きました。

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私は卒業後、一度も同窓会に参加することもなく、疎遠になっていたのに関わらず、当時の私を覚えていてくれた同級生が声を掛けてくれました。この時のご縁で、新たに依頼が来ました。それは平成29年にお亡くなりになった当時の美術担当教員であられた 高木幹郎先生への寄稿文でした。来月発刊される入稿原稿がこちらです。同窓会誌なのでアップしても差し障りはないでしょう!

 

(あかね57 恩師をしのんで 高木先生)

高木幹郎先生への遅すぎたお礼      石田泰也(洛北32期)

高木先生には美術の授業・クラブの顧問にとどまらず、美術系の大学受験でも個人的な相談に乗っていただくなど、本当にお世話になりました。今こうして先生を思うと、本当にブレのない方でした。生徒に好かれようと親密に装うのではなく、直球で「愛ある駄目出し」をしてくださいました。叱る際には、とても真摯な態度で接せられたのをよく覚えています。

例えば私が美術室でトルソー(彫像)の木炭デッサンをしていた時です。私はトルソーを棚にしまったまま見える部分だけを描いていました。先生が部屋に入ってくるや「石田君、きちんと出して描いたらいいのに、そういう気持ちはないのかな?」と仰って、私の木炭デッサンを一刀両断「こんなものは邪道やな」と、その手でバーっと画面を擦って出て行かれたのです。残された私はただ呆然としてしまいました。その時は「怒るくらいなら、きちんと指導してくれればいいのに」と反抗心を持ったのですが、後で思えば、デッサン云々より、ものと向き合う態度自体を叱ってくださっていたのです。先生には既に「絵描きになりたいのです」と何度か話していました。であれば、一刻も早く曲がった性根を正すべしという教えだったのです。

先生からは具体的に絵の描き方を教わったというより、ヒントをポロっと教えていただき「後は自分で考えてみなさい」ということが多かった気がします。最終的には自分で何をすべきかを決める、そういったご指導がなければ、私は画家になれなかったと思います。

近年、美術部の後輩と高木先生の話をしていた時のことです。絵ばかりを描いて一般科目の成績が芳しくなかった私の進学を心配いただき、その後輩に「石田君に勉強を教えてやってくれないか」とこっそり頼んでくださっていたことを知りました。私は卒業後30数年を経て、先生の深い思いやりに接して、赤面すると同時に心が温かくなったのです。先生、その節は本当にありがとうございました。

以上

 

この原稿を書いてからずっと高木先生の事が頭をよぎって仕方がありません。前述の通り、当時は世間知らずの上に、礼節を欠いた青二才だった私にとって、正直とてもおっかない先生でした。そして、それを記憶に刻み込んでしまった私は、先生にきちんとお礼をいう機会もなく、他界された事さえ知らずにいた事を恥じました。今日はなんとなく昔の同窓会誌を見ていたら先生の雑感というものを見つけました。それがこちらです。

 

洛北高校雑感---------------------------------------高木 幹郎 (洛北旧職美術)

 今春、西乙訓高校へ転任し、一学期が終わろうとしています。新設2年目の学校で毎日が多忙の中に過ぎたなあー、という気持ちで一杯です。洛北高校で過ごした6年間、生徒部・担任・進路とめまぐるしく、ゆっくりと物事を考えるゆとりもなかったけれど、新設校はよりいそがしく格別である。でも特に気がかりであったのは、特別教室棟の改築で美術・工芸教室もその中に入っていて、今年こそはと言われながら何となく過ぎてゆき、改築されるならば将来展望に立って悔いの残らないものをと考えていたことが印象に残る一つである。幸いか不幸なのかわからないが、転任の話がまとまった時点で改築の話が本決まりになったのが、残念というしかないような気がする。いずれにしても、今年から新しい学校、高校制度が発足して特色のある教育制度が導入され、より一歩でも前進しようとしている時、新設の学校では設備の充実から始めなければならないしんどさは、また格別である。
洛北高校も決してすべてに満足すべきではなかったけれど、それなりに授業は出来た。新設は何もかもないないからの出発であり、気苦労が多い精か、ほっとした時に洛北高校を思い出す今日この頃である。一学期が終わるせいの気分的なゆとりかとも思われる。矢張り私にとって洛北高校とはいろいろな事を経験し、いろいろな先生とのおつきあいによってかもし出された独特の雰囲気があるのだろうかとも思うのと、なつかしさが矢張り先に立つようである。
私にとって、長い教師生活の中で、あと数年で学校を去るであろう者にしても思い出に残る学校であり不可思議な学校である。洛北高校のよりよい発展を願う一人でもある。(同窓会誌より転載)

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その時の表紙絵は夭折の画家・村山槐多でした。彼は私の先輩だったというのも驚きました。

話が少し逸れましたが、高木先生の洛北高校での教員生活6年の内、私は3年間お世話になったという事を思えば、とても貴重なご縁だった訳です。先生が振り返ってみられて書かれた雑感の中で改築などについて志し高く向き合っておられた様子が伺えて心を撃たれました。飾らない真っ正直な言葉には感銘を受けます。

今回の寄稿文の依頼がなければ、私が気付かなかった先生の一面に触れる事が出来なかったでしょう。その意味でも、編集部や同窓会理事の同級生のご配慮に改めて感謝しなくてはなりません。

おっかない印象のままの高木先生が唯一卒業式で拍手をして生徒を見送られた時だけ、朗らかな笑顔だったのを今も覚えています。その時に私は深々と頭を下げて「ありがとうございました。」と言おうとしたら嗚咽がこみ上げて言えなかったのは何故なのか、今日先生の雑感を見つけてやっとわかった気がするのです。懐が深い事を肌で感じたからだったのです。恩師というのは、一生学びを得られる本当に有難い存在ですね☺️