映画監督 小津安二郎 は日本人の心や風習を的確に描いたと言われることが多いですが、もっと普遍的で、抽象絵画のようにダイレクトに心に侵入するものを映画で描いた様に思えます。風習や時代背景はどうしても小道具や生活様式で画面に反映しますが、それ自体にあまり意味を持たない気がします。優れた映画監督はサイレント時代にモンタージュは完成しており、画面で語る事、登場人物の存在を際立たせる術を習得しています。トーキーになってからは、セリフという旋律が加わる様になります。大抵そこで凡庸な作家は登場人物に物語の説明、最悪はメッセージを語らせてしまうという愚行に陥る訳ですが、小津安二郎の場合はむしろセリフの音や音楽的な要素が優先されている風に感じます。以前の投稿で映画と音楽は、鑑賞時間を作者が限定する意味において時間芸術として共通している話をしましたが、その感覚が研ぎ澄まされて高度な調和を達成しているのが小津安二郎の作品です。
特に晩年の作品はもう完全に絵画の悦楽としか言いようのない情景ショットの羅列で映画の導入部は形成されます。ビール瓶と灯台。
漁村の港から見える灯台
この様に各ショットから全て灯台が配置され、徐々に距離感を取って行きます。
これは松竹の小津が当時の五社協定(東宝・松竹・大映・日活・新東宝・東映がスタッフをバーターするシステム)のもと、大映のスタッフと役者をメインに使って撮った「浮草」のオープニングです。
日本屈指の撮影キャメラマン 宮川一夫 と小津のこの世で一本だけのコラボ作品という事でも知られている本作ですが、このモンドリアンの「コンポジション連作」を想起させる情景ショットだけでも鳥肌が立ちます。