ベオグラードの現地時間17:00から2時間に渡り、子供美術教室でワークショップを開催させて頂きました。
ワークショップ風景は下記 こどもアトリエ青ブログでご覧頂けます。
http://ishidayasunari.hatenadiary.jp/entry/2017/10/16/084929
こちらでは、敢えてちょっと重い話をします。
気になる方はお読み下さい。
今回は「日本から子供教室の講師を歴任したり、ワークショップを通じて国際交流をしている画家がやって来る」というふれ込みで親御さんを通じて別枠でワークショップの時間を頂きました。
この教室には20人くらいの生徒がいるらしいのですが、日曜日の夜という事で集まったのは12名でした。
ワイワイしているのかと思ったら、みんなもの静かで、表情がかたい子が多いと感じました。
中には親から絵を描く事を禁じられていたという子もいてショックを受けました。
主任の先生が「無表情だったり様子がおかしいと思われる子がいるかも知れませんが、先の事情を理解して下さいね。」と仰ったので、私は一瞬で空気を読みました。
幼少時に厳格過ぎた家庭で育ち、躾と称した被虐待児は非常に多いのです。
それは私が援助員をしている滋賀県の青少年のホームでもよく聞く話です。
これは、行き過ぎた躾と称した虐待なのです。
被虐待児童は、暴力や食事を与えないなど子供に異変を察知した方の通報で、児童相談所や警察が動いたり、最悪死に至らしめるなど事件化する事で問題が顕在化します。
しかし一番タチの悪いのは親が子供のために良かれと考える場合です。
親子共に正しい事をしている、されていると勘違いするパターンです。
そして、絵を描く、歌を唄う、そういう行為は無駄で、実人生に役立たない下らない事だと決められる場合もあります。
幸いにして、私は両親から物心をつく前から家中の襖や壁、窓ガラスなどに絵を描く事を容認されて育ちました。すぐに画用紙とペンなどを用意してくれたお蔭で、描く事で言葉を発する子でした。
今の私があるのは、こういった寛容な対応のお蔭だと思います。
一方で、大人との意思疎通が得意でなく、対人恐怖症&過度のあがり症でした。
思春期は学校でも変わり者扱いされましたが、絵を描くと一目置かれ、周りが認めてくれるので、そこにしか自分の道はないとさえ思っていました。
大人になるにつれ紆余曲折を経て、全くあがらないし、返って人前で話すのがワクワクするような人格に変貌したのです。
しかし、どこかで一歩でも踏み間違っていたらと思うと怖くなる事があります。
絵によって生かされてきたと言って過言でないので、踏み間違ってしまいかねない子供と出会うと、昔の自分を投影します。
話さないから暗い、何を考えているのかわからない。子供らしくない。
そういう事をずっと学校の先生から言われましたが、私は逆に何故心を開けるのか、開かなければいけないのか不思議でなりませんでした。先生に理解されたいとも思っていないからです。
私と同じ様な子供と信頼関係を保ったり、共鳴するツールとしてアートを使う。
それは、共通の言語としてアートでコミュニケーションし合える能力が、双方にないと出来ないのです。
そして、このワークショップを通じて、それがセルビアで出来る道を発見したのです。
ワークショップ終了後に先生のアトリエに立ち寄ってアート談義をする中で「来年も出来ればワークショップをしに来て下さい。いつでもアトリエにも寄って下さい。歓迎します。」と言われたのを良いことに「私は将来ベオグラードに住みたいと考えています。その時はこの教室で講師をさせて下さい。」と度ストレートに要望を伝えました。二つ返事で「それは嬉しい。一緒にやりましょう。」と応えて下さいました。
このやり取りは、日本なら社交辞令で言ってるのに、何を本気になってるの!?
空気読めてないんじゃないの😝 と思われるでしょう。
その通り。日本では全て社交辞令です。
しかし、セルビアでは日本的な社交辞令は逆に失礼なのです。そういう国民性なのです。お世辞は保身のためですから、相手を思うなら良いところと悪いところの両方をはっきり言うべきです。
アートグループOAKも私がランプ店のオーナーのゾランに「あなたとコラボレーションがしたい。いいですか?」「うん、いいよ。」
このやり取りが元で全て始まり、今も続いています。
だからこの子供教室で働く夢は現実化されます。
夢をゆめ、持たない方がいいと言う人とは一瞬も時間を共有できません。
夢はかなえるもの、理想は追い求めるもの。
それが私の持論です。理想的な形ではなくても夢を実現すれば、それは理想に一番近い。
この子供教室は気に入ったので、セルビア滞在中に何回かお邪魔しようと思っています。
劇場やモード系の中学校も併設されています。
セルビア語サイトですが、雰囲気は分かり易いです。